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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [14]




「離して」
 早苗はゆっくりと栄一郎の胸を押した。離れていく彼女の身体を惜しむかのように、栄一郎は中途半端に両腕を彷徨わせた。
「私は帰ります。もう工場では働けないし」
「俺のそばにいてくれ」
「それはできない」
「どうして?」
「私が傍にいると、あなたは不幸になってしまう」
「どうしてそういう事を言うんだっ」
 拳を握りしめ、地面に向かって吐き捨てる。
「俺にはお前しかいないんだよっ」
「逃げても、何の解決にもならない」
「逃げてなんかいないっ!」
 伸ばした右手を、そっと栄一郎の頬に添える。
「楽しかった。一緒にいられて、本当によかったと思ってる。きっと忘れない」
「これからもっと、楽しくなる」
「そうね」
 ふっと、笑みが零れる。
「あなたはもっと、楽しい人生が送れるはず」
「お前が傍に居てくれればの話だ」
 両手で、早苗の両の頬を包んだ。
「好きなんだ」
 ようやく腫れのひいた瞼の下に、涙が溢れた。だが零れたのは一筋だけ。
「結婚しよう。必ず幸せにする」

 幸せにする。

 どこかで聞いた言葉だな。
 瑠駆真はぼんやりとそう思った。
 どこでだっただろうか?

「必ず幸せにする。だからどこへも行くな」
「もうすぐ電車が来る」
「行かせない」
「私が帰らなければ、母にも弟にも、みんなに迷惑を掛けてしまう。そんな事は絶対にできない」
「嫌だ」
 言いながら、絶望が栄一郎の胸に広がった。
 早苗の瞳には決意が満ちていた。彼女は、絶対に家族を裏切らない。
「俺よりも、家族か」
 早苗は視線を落とした。唇を震わせ、苦痛で眉間に皺が寄る。
「ごめんなさい」
 栄一郎は歯を噛み締め、突き飛ばした。小さな身体が大きく揺れた。
「行けよ」
 吐き捨てる。
「行けよ。どこへでも行っちまえっ!」
 路面電車がやってきて、ギシギシとうるさい音を立てながら止まった。
 小さな鞄一つだけを手に背を向けるその動きは実に優雅で、気高く、躾の行き届いた上流階級の令嬢のようだった。悔しいくらいに、綺麗だと思った。
 行くな。
 その言葉が喉元まで競りあがる。
 乗り込んだ早苗は、見える席に腰を下ろした。だが視線を落としたまま、栄一郎を見る事はしなかった。少し伏せた瞳が、朝靄の中で色っぽかった。
 どうしてこんな事に。
 拳を握り締め、歯を噛み締める栄一郎の目の前で、電車はガタガタと大きく揺れて動き出した。そうして朝靄の中を、早苗を乗せて、どこか遠くの異界へと、姿を消してしまったのだった。



「美しかった」
 栄一郎は呆けるように宙を見つめている。
「華のような、とは、あのような姿を言うのかもしれない」



 放心状態で富丘へ戻った。一日中ぼんやりと過ごした。夜、肌寒さが逆に心地良いと感じ、ベランダへ出た。丘の上の屋敷から眺める夜空。西の隅で、こと座のアルファ星が輝いていた。
 夏の天頂で純白に輝いていた織姫は、西に追いやられる季節となってもその美しさを失う事はない。沈みゆくその瞬間までを気高くあろうと瞬いている。
 九州の片田舎から出てきた織姫は、説話にあるような恋などはできなかったし、恋に現を抜かして機織をサボったりするような事もなかった。天から恵みを受けることはあっても、罰を受けるような事などはした覚えもないはずなのに。



「それで結局、それっきりなんですか?」
「そうだ。迎えに行こうとも思ったが、縁談がまとまったと木崎から聞き、気持ちが()がれた」
 俺以外の男のモノに、なってしまった。
 そんなに家族が大事だったのか。
 早苗は荷物のすべてを持って帰ったワケではない。寮や、富丘の屋敷の部屋に、少しだけだが残されていた。寮の荷物は会社の人間の手によって実家に送り返されてしまったが、富丘に残されたものは見る事ができた。
 電報が一枚、破られてゴミ箱に捨てられていた。繋ぎ合わせて読んでみた。とても簡単な一文だった。
 カネ オクレ
「早苗さんの父親は小さいときに亡くなっていて、母親は亡くなった亭主の兄、つまり義理の兄の援助を受けて子供を育て、家計をやりくりしていた。再婚の話もあったらしいが、娘が、早苗さんにとっては一番上の姉にあたる女性が行きずりの男に(そそのか)されて駆け落ちしたらしく、その話が枷となって母親の再婚を阻んでいたらしい。早苗さんの家族は、伯父の援助に頼る以外には術がなかったようだ」
 姉のせいで自分たちは苦労をしている。そんな思いがあったのかもしれない。だから早苗は、栄一郎と共に行く事ができなかったのかもしれない。
 伯父の顔色を伺いながら、肩身の狭い思いをしながら暮らさなければならなかった早苗の家族。貧しく、援助無しでは生活のできない彼らには、伯父に逆らう術は無かった。
「伯父は少し横柄なところがあったようで、仕送りを要求する電報が頻繁に送られてきていたらしい」
 電報をチェックしていた職制から聞いたのは、年が明けてしばらくしてから。
「早苗さんは、そんな事情など一度もワシには話さなかった。家の恥だと思っていたのか、同情されたくないと思っていたのか」
 今となっては、もうわからない。
「それで結局、東京へは行ったんですか?」
「いや、実家に戻ったよ。もともと家など飛び出す勇気も度胸も持ち合わせてはいない、情けない男だったからね。早苗さんという心の支えを失って、東京へなど飛び出せるはずもない」
 自嘲する。
 実家に戻り、腑抜けのような生活を送った。以前のように酒に溺れるような事はなくなった。酒を飲む気力すらもなかった。ただ学校と自宅を往復し、休みの日には自宅に引き篭もった。元気は無かったが、以前のように荒れた行動を起こすわけではないので、家族はむしろ栄一郎の態度を喜んだ。
 早苗と別れて半年が経ち、一年が経ち、二年が経った。時は、栄一郎など置き去りにしたままどんどんと進んでいった。百円硬貨が発行され、伊勢湾台風が襲来し、やめられなくってとまらないえびせんが発売された。
 あれから、いろいろな事が起こった。
 やがて大学を卒業し、父親の会社で働く事となった。世の中では労働運動なるものが激しくなり、裁判なども起こるようになった。そんな世の中で、栄一郎は管理階級に徹した。労働者の立場でモノを考えようなどとは、微塵も思わなかった。
 奴らと俺とは、身分が違う。
 忘れようと思った。断ち切ろうと思った。だが、心の隅に、いつも小さく存在していたのは確かだった。
極力避けていた大須に仕事でどうしても出向かなければならない時など、胸の痛みに奥歯を噛み締める事もあった。名古屋と栄町の間に地下鉄が開通すると、活気は大須から離れていった。映画を見た新天地は寂れ、冷やかしてまわった首つり屋も消えた。初めての珈琲に目を輝かせていた喫茶店は、今も残っている。
「僕、ここのサンドイッチ、大好きなんですよ」
 晴れた日の公園で、取引先の若い営業マンとテイクアウトのサンドイッチを食べた。確か早苗と行った頃は、まだサンドイッチなどというメニューはなかったはずだ。あれば、食べさせてやっていたと思う。一口頬張る。人気商品だと聞いたが、あまり美味しいとは思わなかった。
 美味しそうに頬張る営業マンの姿に、早苗の姿が重なった。あの時、もしサンドイッチがメニューにあって、それでもし、早苗に食べさせてやっていたならば、やはりこのような笑顔を零しながら美味しそうに頬張ったのだろうか? そういえば、あの頃、この辺りにはアメリカ村があったんだったな。







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